漢文を音読しょうNO,51

                                                              

 
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(一) 21世紀脱亜論                                                  2014.2.28
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福沢諭吉が設立した新聞社、時事新報の社説に無署名で掲載された記事が脱亜論
 
であります。
 
130年前の脱亜論の要旨を記すと
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我日本の國土は亜細亜の東辺に在りと雖ども、其國民の精神は既に亜細亜の固陋を

脱して西洋の文明に移りたり。然るに爰に不幸なるは近隣に国あり、一を支那と云

い、一を朝鮮と云ふ。
千年の古に異ならず、此文明日新の活劇場に教育の事を論ずれば儒教主義と云ひ、學

校の教旨は仁義禮智と稱し、一より十に至るまで外見の虚飾のみを事として、其實際

に於ては眞理原則の知見なきのみか、道徳さえ地を拂ふて殘刻不廉恥を極め、尚傲然

として自省の念なき者の如し。我輩を以て此二國を視れば今の文明東漸の風潮に際

し、迚も其獨立を維持するの道ある可らず。
 
如何となれば麻疹に等しき文明開化の流行に遭ひながら、支韓両国は其傳染の天然に

背き、無理に之を避けんとして一室内に閉居し、空氣の流通を絶て窒塞するものなれ

ばなり。
我日本國の一大不幸と云ふ可し。左れば、今日の謀を爲すに、我國は隣國の開明を待

て共に亞細亞を興すの猶豫ある可らず、寧ろその伍を脱して西洋の文明國と進退を共

にし、其支那朝鮮に接するの法も隣國なるが故にとて特別の會釋に及ばず、正に西洋

人が之に接するの風に從て処分す可きのみ。悪友を親しむ者は共に悪友を免かる可から

ず。我は心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。 

                    時事新報 脱亜論より

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この内容から現在の中国(シナ)、韓国と比べるとこの両国の精神は130年前と全く進歩
 
していないことが判断できます。
21世紀の現在においても近代化できない支那、韓国、そして北朝鮮に囲まれている我が国
 
にとって一種の宿命であろうと思われます。
 
この脱亜論を発表したのが明治18年(1885)でその状況は現在の二国は全く130年前に
 
類似しています。又両首脳もその130年前の国家観を想像している様であります。
                           時事新報 社説 脱亜論より
 
              W I LL  2014,4月号 韓国化する支那 西村幸祐より
 
(二)福翁自伝を音読しよう。

著者:福沢諭吉 (1834〜1901)

  「学問のすすめ」の著者、慶応義塾大学の創立者
 
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時事新報

ソレカラ明治十五年に時事新報という新聞紙発起しました。

ちょうど十四年政界変動ののちで、慶応義塾先進の人たちがわたしかたに

来てしきりにこのことを勧める。

わたしもまた自分で考えてみるに、世の中の形勢は次第に変化して、政治の

ことも商売のことも日々夜々運動の最中、相互いに敵味方ができて議論は

次第にかまびすしくなるに違いない。

すでに前年の政変もいずれが是か非かソレハさしおき、双方主義の相違で

喧嘩をしたことである。

政治上に喧嘩が起これば経済商売上にも同様のことが起こらねばならぬ。

今後はいよいよ益々甚だしいことになるであろう。

この時に当たって必要なるは、いわゆる不偏不党の説であるが、さてその不偏

不党とはくちでこそ言え、口に言いながら心に偏するところがあって一身の

利害に引かれては、とても公平の説を立てることが出来ない。

そこで今全国中に、いささかながら独立の生計をなして、多少の文思もありながら、

その身は政治上にも商売上にも野心なくしてあたかも物外に超然たる者は、

おこがましくも自分のほかに適当の人物が少なかろうと心の中に自問自答して、

ついに決心して新事業に着手したものが、すなわち時事新報です。
             福翁自伝 福沢諭吉著 慶応義塾大学出版会
 
 
(三)二宮先生語録を音読しよう。
 
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  ○人道とは恩徳に報いること

  過去をかえりみれば、きっと恩を受けてかえさなかったことがあろう。

  また徳を受けて報いなかったことあるにちがいない。

  報いることを思わない者は、必ず過去の恩を忘れて、目前の徳をむさぼり

  受けるものだ。

  だから貧賤が其の身をはなれない。報いることを思う者は過去の恩を覚え

  ていて、目前の徳を追い求めようとしない。

  だから富貴が其の身を離れないのだ。なぜかといえば、恩を返し徳に報いる

  ということは、百行の本、万善の源だからである。

  まず、体の隅々まで自由に動かせるのは父母の恩である。

  其の恩に報いるのを孝という。 禄位があって人に敬われるのは主君の恩

  である。 その恩に報いるのを忠という。
 
  吾が田を安らかに耕し、吾が家に安らかに住んで、父母妻子を養うことが

  できるのは、国家治世の恩である。

  その恩に報いるのを納税という。 穀物や野菜を産み出して、人の身を養い

  、安らかに生活させるのは、田畑の徳である。 その徳に報いるのを、農事

  に励むという。 日用の品物が、何でも欲しい時に手に入るのは商人の徳で

    ある。

  その徳に報いるのを、代金をを払うという。

  金を借りて用を足すことが出来るのは貸主の徳である。 その徳に報いるのを

  利息を返すという。 その他一々数え上げたらきりがない。

  こうしてみれば、人道とは、恩を返し徳に報いるということにつけた名前な

  のだ。

  人たる者は、どうして報いることに努めないでよかろうか。
 
 
     
       二宮先生語録(上)−二宮尊徳述を斉藤高行 原著 一円融合会
  
 
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