漢文を音読しょうNO,56
2014.4.20 (一)再び歴史は繰り返す 読み上げ音声<<クリック 中国では1989年に天安門事件がありました。 其の事件で多くの人民が殺害されていますがその事件は隠蔽されています。 それから25年経っています。 この天安門事件があったことも人民は忘れ去っています。 歴史から消却してしまったのです。 過去から教訓を得るどころか、歴史から抹殺してしまったのです。 そこから何が生まれるのでしょうか、歴史は繰り返されるのです。 中国の歴史上、唐、宋、南宋、元、明、清の時代の終わりには暴動、内乱が 起こって新しい時代が始まったのです。 現在年間20万件以上の暴動が起きていますが天安門事件が忘れ去った今その 歴史の繰り返しが起きる前触れをキッカケがあれば何時起きても不思議は無い 状態といえます。 現在中国は尖閣諸島は確信的利益と明示して船舶、飛行機を駆使して日本に 圧力をかけ続けています。 其の裏面は何であるかを明確にしましょう。 嘘も百回吠えれば嘘も真実となるという考えから来ています。 南京大虐殺も同じであります、1937年12月に日本軍が南京攻略したのですが その際、蒋介石の国民党軍は逃亡していなかったのです、毛沢東、共産党軍は山奥 に雲隠れしていました。すなわち戦闘逃避です。 シナ軍の特徴は戦う前の態度は強がりを示すがいざ戦となると逃げの常習犯です。 尖閣諸島に関しても45年前に言い出して地図から書き換えて我が国の領土と 言い出し始めたのです。 国家は人民と政治上との問題の格差が開けば内乱,争乱が始まります。 ●人民の問題は空気汚染、水質の汚染、食べ物の汚染、物価高、失業率が高まり、 搾取された農地住居の返還、 ○政治上の問題は尖閣諸島を確保する、ウイグル地区安定、チベット地区安定、 環境汚染を改善 両方の問題の格差は開くばかりで改善する兆しは見えない段階です。 そこで人民の集団的争乱が激しくなればなるほど政治上の言動は外への問題を大きく していく考えが出てきます。 勿論尖閣諸島の侵略です、その侵略が起これば何が起こるでしょうか、 日本が尖閣諸島を取り返す行動が開始されます。 アメリカはオバマ大統領の不決断で動かないでしょう。 ●尖閣諸島の侵略こそ天安門事件が起こるキッカケとなるでしょう。 中国各地の数万箇所で内乱、争乱が同時に起こると思われます。 其れと同時にウイグル地区の暴動、チベット地区の争乱も起こるでしょう。 モンゴル地区の暴動も起こってくるでしょう。 其れと同時にフイリッピン、ベトナム、近隣諸国が島々を取り返し確保行動が起こる と思われます。 上記の内乱、争乱が大きくなり共産党の終わりとなるかは●問題の深刻さが今以上と なることが条件であります。歴史は繰り返されるのです。 共産党が終わることであって新たな中国が誕生することであります |
(二)伊藤一刀斎剣法書を音読しよう。 音読音声<<クリック 先手を取る術 先に体用の二つ在り。その備えは不変にして無事を以って攻めるを体の先と云う。 既に其の位変じて処に随って形を現ずるを用の先と云う。 伝に云わく、体の先は体を以って攻め、用を以って守る。是敵の利を奪いて 其の備えを破り、合するを以って攻め。 其の利を表とし、其の事を裏する也。 用の先は用を以って攻め、体を以って守る。是敵の備えを破って其の事を奪う。 離するを以って攻め、其の事おもてとし、其の利を裏とす。 若し体用攻守の事理を知らず、妄りに乗じて勝たんと欲するものは、首を延べて 討たれ。 手を出して斬らるるに同じ。能く鍛錬すべし。 参考文献 武道秘伝書 吉田豊編 徳間書店 |
(三)道は近きにありを音読しよう。 音読音声<<クリック 修 養 凡そ知識を発達させるの方法手段は、学識にもせよ常識にもせよ、 すべて修養を積むの外は無いのである。さて其の修養ということは かの教育ということと別段に相違のあることではなく、但し自から 発動するのを修養と云い、他から発動させられるのを教育と云うの であるから、常に教育者が開発主義の教育というのは全く自ら修養 させるように導くということに過ぎぬのであろうと思う。 要する所は教育というも修養と云うも、結局自分に天然本来具有して 居る所の性徳を発達させるまでのことで、決して新たに他から加えら れるものでは無い、即ち元来に無いものを造り出すのではないのである。 之を仏教の上で云えば本具の仏性を顕すの方法に過ぎず、儒教で云えば 天命を全うするとか本然の性を発揮するとか云うまでのことである。 乃ち教育の教の字を仏教では聖人より下に被らしむるの語というてあって、 佛や祖師が種々なる方便を廻らして、衆生を誘導感化することを教と云う のである。此の字を日本の言葉でオシエと読むのが面白い、オシエと云う のは 惜しいと云うことの転化したので、物の空しく徒らに亡滅したり 朽廃したりするのを惜しむの心が、愛し憐れむの心ともなる。 其の心が子孫なり弟妹なり後輩後進のものに向かっては、斯くも立派なる人間 に生まれ出でたるものを、此の儘禽獣同様に朽ち果てさせるのが如何にも惜しい ものであると云う。 参考文献 道は近きにあり 大内青巒著 東亜堂書房 大正4年発行 |