古典を音読しょうNO,65

                                                              

 
 目次ページ  前ページ  次ページ
(一)集団的自衛権について                         2014.7.20
    読み上げ音声<<クリック
 
テレビ、新聞では集団的自衛権について難しく、分かりにくく説いて

国民が反対、反対と唱える如くなるように極端な例を並べている。

一般的に、個人的なことに例えて解説すると
 
日本は同盟国、協力国に対して「こちらに何かあった場合には助けて

下さい」と言い「でも貴方が困っている時に助けることはできません」

と言ってきました。
 
こんな御都合主義な人と付き合う人があるでしょうか、それが国家に

おいて堂々と罷り通ってきたのが日本であります。

自分の家庭の幸福はみんなで守ってください、隣近所の不幸は一切かか

わりたくないと云う人間と交際したいと思いますでしょうか。
 
一国平和主義を押し通して世界の森林を伐採させてしまい、砂漠化させる

一因になるような環境を作り出して平然と一国だけが平和であれば良いと

行動してきたのが日本であります。

これは一部分、日本国内だけしか考えない一国平和主義となります。

これからは世界から見た日本はどのような言動をすべきかを考えなければ

日本は世界から孤立してしまいます。
 
周辺国には特定アジア国(中国、韓国、北朝鮮)という全く考えが違う国

が控えています、又ロシャという異質な国も隣国に控えています。

遠交近攻であり、世界と広く深く交わり協力して近隣国を統率していかな

ければ世界平和を達成することはできません。
 
増しては現代は100年前の群雄割拠な時代に戻ったような戦乱世界が展開して

います、シリア内戦、イスラエルと近隣国との争い、ロシアとウクライナと戦い、

中国とベトナム、フイリッピンとの領有権争い、中国と日本の尖閣諸島問題

次から次へと問題が拡大していきます、その中心が米中間冷戦であります。

中心覇権国がいなくなったことが原因であります。
 
今回の集団的自衛権容認により韓国、中国におられる邦人を有事の際に助ける

活動が出来るようになったことであります。

今まではこの邦人保護すらできなかったことが現状であったのです。

日本は世界平和への貢献の第一歩を踏み出したことになります。
 
参考文献 集団的自衛権で自衛官は安全になる 佐藤正久 参議院議員

     (WILL 8月号より)
 
(二)落語小噺を音読しよう。
  

落語とは歌と同じであります、演じる語り手が違うと異なる魅力が生まれ

同じ語り手が同じ話を語ってもその場の雰囲気で全く異質な話となります。

自らの気分で伝わり方が変わってきます。是非演芸場に出かけて聞いて

見てください。
 
    音読音声<<クリック
 
○野ざらしー手向(たむけ)の酒

ある夜、長屋に住む八五郎の隣りから女の声が聞こえてくる。

隣りに住むのは、堅物で有名な尾形清十郎という浪人。

若い女が年老いた浪人の足腰をさすっている。

日ごろから、「女嫌い」で通っていた先生に、

女っけが出来たことにフンガイした八五郎は、翌朝、先生宅に

突撃する。

「あれはこの世のものではない」

先生の話によると、向島で釣りをした帰りに野ざらしのしゃれこうべを見つけ、

哀れに思って酒を振りかけ、手向けの一句を詠むなどねんごろに供養したところ、

何とその骨の幽霊がお礼に来てくれたというのだ。
 
その話を聞いた八五郎、「あんな美人が来てくれるなら幽霊だってかまわねえ」

とばかり先生から無理やり釣り道具を借りて向島へ。

居並ぶ太公望(釣り客)達に、「骨は釣れるか?新造か?年増か?」と質問して

白い目で見られつつ良い場所へ陣取り、早速、骨釣りを始めた。

釣りはそっちのけで滑稽を演じているうち、夕暮れになる。

やっと骨を一つ探し当てて、酒を手向け、「今晩必ず来ておくれよ」声をかけて

帰る。

これをかげで小耳にはさんだのが野幇間の新朝。

逢引の約束に違いない、訪ねて行ってとりまいてご祝儀にありつこうとやってくる。

娘と思いのほか、男が訪ねて来たので驚いた八五郎、一体お前は誰だというと

あたしぁ新朝という幇間もちでげす。

新町の太鼓、、、、しまった、あれは馬の骨だったか。
 
注記)

新町とは現在の東京都台東区今戸1丁目付近の事で、かつては太鼓屋が立ち並んで

いた。そして、以前和太鼓に張っていたのが馬の皮。そこで、幇間(たいこ)の名前

と「新町」、幇間(たいこ)と太鼓を引っ掛けた語呂合わせが落ちに使われた。
 
参考文献 落語ハンドブック  三省堂
 
 
(三)集義和書を音読しよう。

著者 熊沢蕃山
   音読音声<<クリック
 
來書の大略

現在学問をする人は天下、国家の政治に直接関係したいと考えるものが

多いらしく思われます。若し聖人の道に通じた学者に国政を委せておけば、

国は十分に治まり、世は安穏となりましょうか。
 
返書の大略

何れの学問でも現在は利欲を目的として研究する者が多数で、貴君及び

自分などのように、道を知ること自身に目的を置くのは、現在愚人だと

考えられている。この世に生まれて知識を得るに従って世間に出る人は利発

だと云えるが、世間の利害に余り染まり過ぎれば真の道徳とは遠いものと

なってしまう。然るに我々、及び貴君など、この世に生まれながら世間に

出る知識を知らず、而も現在俗人と共に生活しながら其の中に漂って道を

聞いて喜んでいるので、元来が愚かであるからその困難を知らず、古の法

を中心として今を治めようと思うのである。若し自分こそ世を救う唯一の

存在であると思う学者に国政を委せるならば、忽ち国は乱れ切ってしまう。

例え古の有名な人に劣らない程の賢才があっても、人力のみで国を治めら

れるものではない。まして現在は古人と同程度の人が存在しないのである

から、自分の言は一層真理だと云う事が出来る。

尭舜の御代には各家毎に善人が満ちていたと伝えられる。それでも政治の

才能のある人は約五人程しかいなかったと云われるではないか。周の盛時

にも九人だけであったとか。若し学問の結果、誰にでも国政が行われると

なれば、古の聖代には五人、九人などと云う事は有り得ない。

古の才と云うのは徳知と才学とを兼ねた人のことだとか聞いている。如何程

博学であり、徳が備わっていても、時の人情、世の変化を洞察する才のない

人は政治には適しない。世間には智があっても心が曲がった人は多いので、

これが亦甚だしく害をながしていいる。昔の人は以上のことを説いて下位に

居る者から国家の宰相を選んだが、現在は其の儘であっては完全でない。

其の位に備わっている人か、一般大衆がこの人でなければならないと無限の

信用を置いた人か、または習慣的に人情がそうさせた人かの中で、何れから

見ても非難のない人物を選ぶらしい。この人々は必ずしも古の聖人の道に

達している必要はなく、又それが現在では条件でもない。

自分は寧ろこうした人の方が、徒に古人を規範として自分でなければ治まら

ないと尊大ぶる学者の国政よりも優っていると思う。
 
参考文献 熊沢蕃山集  大日本思想全集  昭和9年発行
 
inserted by FC2 system