古典を音読しょうNO,89

                                                              

 
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(一)チヤイナの抗日戦争勝利70周年に思うこと
 
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チャイナ共産党が日本との勝利式典を行うことを去年より喧伝しているが毛沢東共産

党は日本軍と一度も戦っていません、戦ったのは将介石国民党軍であります。

共産党軍は日本軍が攻めると西の山奥に逃げ込み一切出陣して来ない戦略を立てて

一切日本と戦っていません。南京に攻め込んだ日本関東軍は国民軍も逃亡してしまっ

た後で日本軍が攻め込んだ時には南京の人民は安堵して歓待されたほどでした。

30万人大虐殺と言うのは全く嘘偽りであります、もし自分たちが攻め込んだならば

と妄想を喧伝したのであります。共産党軍は山奥に逃亡して南京を攻められたことも

知らない状態であったのです。

19世紀後半からチャイナは自国を統制できないほど乱れていて世界の8国(英、仏

、墺、独、米、蘭、露、日)がチャイナを統制していたのです。

共産党が将介石国民党軍を台湾に追い詰めたのは日本が敗戦した後です、それまで山

奥で温存していた共産党軍が日本との戦いに疲れた国民党軍を破ったのです。

台湾に逃げた将介石国民党軍を攻め落とそうとして大陸より2キロの金門島を攻めま

したがそこには陸軍中将・根本博が密入国して援助指揮したことで共産党軍は一万数

千人の捕虜を出しみじめに敗れ去ったのです。金門島は台湾より100キロも離れて

いてチヤイナ本国より2キロ地点であります、今考えてみても離れ小島の金門島が台

湾地であることが信じられません。 

それほどチャイナ共産党軍は弱く、南京30万人大虐殺をされたと嘘をつき捏造して

日本が強すぎたことを喧伝しているのです。

毛沢東自身も日本軍が国民党軍と戦ってくれたから共産党軍が勝ったことを認めてい

たのです。 隠蔽、捏造の繰り返しで習近平、李幹部の生まれていなかったチャイナ

首脳は歴史隠蔽、捏造で全く歴史に無知なのです。

1949年に建国したチャイナですから65年しか経っていないので60歳前後の

首脳達が歴史が分からないのは当たり前で有ります。
 
チヤイナは共産党幹部が顕在意識であり、人民が潜在意識であります、心理学的に

申しますと潜在意識は自国と他国を区別できない、過去、現在、未来を区別できない

性質を持っています。 その人民を統制するのが顕在意識である共産党でありますが

その統制するはずの首脳が他国である日本を70年前まで侵略した国を許すことが出

来ない、チベット、ウイグル、モンゴルを現在侵略している国家が公然と言い放つ頭

脳は国家が統制できていない証左であります。

19世紀後半の世界8ヵ国に統治されていたチャイナに逆戻りした感があります。

戦前日本が侵略していたことなど実質一度もないのであります、8カ国が国内に

入り込まなければ国内統治ができないことで入り込み、ロシャが朝鮮、チャイナに

進入することを防御するために日清戦争、日露戦争をしてチャイナ、朝鮮を安寧に

納めたのであります、それでもロシャが攻め込む気配をなくす為に満州国を創らせ

防御壁国としたのであります。

1912年を日本国民が保護した孫文を中華民国臨時大統領にして建国させたので

す。 南京攻略の二日後天安門に日の丸が翻り5万人のチヤイナ民衆が埋め尽くした
 
ほど日本軍が歓迎されていたのです。
 
参考資料
 
日中戦争時代の武士道精神  水間政憲  PHP電子
 
 
(二)至誠と努力を音読しよう。

渋沢栄一 1840年 - 1931年 江戸時代末期(幕末)から大正初期にかけての日本の

武士、官僚、実業家。第一国立銀行や東京証券取引所など多種多様な企業の設立・経

営に関わり、日本資本主義の父といわれる。
 
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○得意と失意

人生行路の難易 総じて人生の行路には長短の別がある、物心ついてより身を終わる

迄長きは七、八十年、短きも四、五十年として見ても、よくよく考えれば、其の行路

や遼遠なりと云って宜かろう、又同じ人生として、行程にに変化が多ければ、何とな

く長いように感ぜられ、十年一日の如しというように、あまり変化がなければ、たと

え七十年長年月も、きわめて短いような感じがするであろう、即ち人の一生は、歳月

そのもののみならず、その人の行路に於ける変化の多少によって、左右されることが

少なくないと思う、凡そ人生の行程は、遭遇する事柄や、時勢と云うものに支配せら

れるのは、已むを得ぬのであるが、変化の多きのみが必ずしも宜いとは言われぬ、た

とえ変化なくともその境遇が順調で幸福多きものである成ればそれほど良い事はな

く、また変化が多くとも、失敗蹉跌に赴く方の変化であるならば、決して喜ぶべきも

のではない、而して乙の変化と云うものは、人為を以って増減する事は出来ない、各

人の吉凶禍福は、ただに天の時、ちのりのみならず、人為の上からも思いのままに、

換えられるものではない、仮に変化の少ないのが、人生には行路易を感ずるとしても

、たとえばその家が富み栄えているとか、又は親戚に富めるものがあるとかいう事は

幸福に違いないけれども、その子弟が、これがために安逸になり、淫靡柔弱に陥ると

したならば、その結果は、却って不幸云わねばならぬ、此く考え来たれば、人生は

富み且つ長いのみが善いともいえねば、又短く且つ貧しきが悪いともいえぬ、短い人

生に於いて大事業をなしたものもあれば、長い一生を有しながら、何等観るべき仕事

をもなさぬものもある、同じくば人生は長くして、変化の少なきを希望すべきであ

る、特に注意すべきは、事業に対する生命の長く且つ堅固なることである。
 
参考資料
 
至誠と努力  渋沢栄一  榮文館書房

 
 
(三)世阿弥 申楽を音読しよう。

世 阿 弥 (ぜあみ)(1333〜1384年)
 
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笛・狂言の名人

習道書に、種々の定あれば、委細書き置かず。笛のことにつき、年寄り・童と有る

は、観阿・世阿両人の事也。少将の能とて、丹波の少将帰洛有りて、「思いし程

は」の歌詠みたる所の能也。又狂言には、大槌、新座の菊、上くわに入りし物也。

初若の能に、此の能は、子を勘当しけるが、親の合戦すと聞きて、由比の濱にて合
 
戦して、重傷負いたる能也。「あの囚人は如何なる者ぞ」といわれて、「おそろし

く候」と云い、寄りて見れば初若也。 それより湿り返りて、親に此の由を告げし

を、思い入れ、其の比褒美有りし也。狂言も、斯様所を心得べし。後の槌太夫は、

鹿苑院御覧じ出されたら者也。狂言すべき者は常住にそれに成るべし。屹として俄

かに狂言にならば、思いなし大事成るべし。後の槌、北山にて、公方人、高橋にて

行合いたるに、槌ありとて、扇翳して通られしを、側にへ寄りて、外みて、又扇翳

して我も通りし。斯様成り心根上手の心也。

右、以上、出世上果之風義也。
 
参考文献

申楽談儀 世阿弥 岩波文庫
 
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