古典を音読しょうNO,86

                                                              

 
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                                                                     2015.2.20
(一)剣豪と守破離
 
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江戸時代中期に異端の天才剣客、真里谷円四郎という剣豪がいて一千回を超える他流

試合に一度も破れなかった強い剣客がいたことが「剣の精神誌」に紹介されている。

その剣豪はそれだけ強かったのであればなんらかの形で伝わり名前が知られて

いるはずであるが、全く知ることができない理由があるのではないかと思われます。
 
江戸時代の中期ではもう既に真剣で勝負する時代は終わっています、唯武士という形

式で刀を腰に挿していただけであります。

従って江戸時代の一千回の他流試合は竹刀、他で戦ったのでありますがその試合で

あってもそれだけの試合を勝ち続けたことは相当の剣豪であったのでもっと知られて

いても良い筈であります。
 
無住心剣術開祖 針ヶ谷夕雲ー二代目小出切一雲(「心法の剣術名人」ということ

で剣術に関心のある人に知られている)ー三代目が真里谷円四郎であります。
 
戦国末期から幕末までの日本の代表的な剣客十人に一代目の針ヶ谷夕雲が選ばれて

います。 座禅の鈴木大拙が江戸時代の座禅者の夕雲を評し、一流の禅者に選出して

夕雲と二代目の一雲と相ヌケで勝負が付かなかったことを評して互いの氣はくで

勝負無しで二代目を認めたことを記しています。

師と弟子は互いに間合い、氣合い、太刀筋を長年同じ流派で競い教わっているとその

氣が同等になり師と弟子の氣が一体となり勝負が全くつかない状態になり禅の心から

相ヌケとなり実技でなく精神的一体通じ合いが生まれてそのような互いの心の和から

勝負無しの状態となると禅の大家は印象づけたいと思ったのであろうと思う。

それほど江戸時代の剣客は禅においてに修行した証であります。
 
真里谷円四郎は二代目の一雲に二度も勝って三代目を道統したのであります。

勝ったことは師より強いことで良いのですが流派の精神に反したことがその後は円四郎

の弟子は増えて隆盛を極めたが無住心剣術流派は途絶えてしまった原因であり本人自身

も現代まで有名にならなかった真因であります。

流派を守るためには弟子までは師の教えを守り、引き継いだ後は其の教えを破り、

離れて自らの流儀を付け加えていく精神が不足していたのではないでしょうか。

禅における心の修行が不足していたことが流派を途絶えさせた根因であります。
 
参考文献

剣の精神誌  甲野善紀  ちくま学芸文庫
 
(二)夜船閑話を音読しよう。

1ヶ月前に前書き的なさわりを記しましたので今回は治療法を掲載
 
      音読音声
 
理想的の疾病治療法

もし、此の秘要を修せんと欲せば、且らく工夫を拠下し、話頭を粘放して、先づ須ら

く熟睡一覚すべし。其の未だ睡りにつかず、眼を合せざる以前に向って、長く両

脚を展べ、強く踏みそろへ、一身の元氣をして、臍輪氣海丹田腰脚足心の間に充たし

め、時々に此の觀を成すべし。

我が此の氣海丹田腰脚足心、総に是れ我が本來の面目、面目何の鼻孔かある。

我が此の氣海丹田、総に是れ我が本分の家郷、家郷何の消息かある。

我が此の氣海丹田、総に是れ我が唯心の淨土、淨土何の莊嚴かある。

我が此の氣海丹田、総に是れ我が己心の弥陀、弥佗何の法をか説くと、

打返し打返し常に斯の如く妄想すべし。

妄想の功果積らば、一身の元氣いつしか腰脚足心の間に充足して、臍下瓠然たる事、

未だ篠打せざる鞠の如けん。

恁麼に單々に妄想し將ち去つて、五日七日乃至二三七日を経たらむに、從前の五積

六聚、氣虚勞役等の諸症、底を払って平癒せずんば、老僧が頭を切り將ち去れ。
 
    参考文献
   白隠禅師 夜船閑話  高山峻  大法輪閣
 
 
(三)二宮翁夜話を音読しよう。
 
   音読音声
 
循環の理と人道(八十五)

翁のことばに、儒教で循環といい、仏教で輪廻転生という、これは天理だ。循環とは

春は秋になり暑さから寒さになり、盛りから衰えに移り、富は貧に移るのをいう。

輪転といっても同じことだ。そうして、仏道は、この輪転を脱して安楽国に往生する

ことを願い、儒教は、天命をおそれ天に事えて、泰山のように安泰であろうと願う。

ところで、私の教えるのは、貧を富にし、衰えたのを盛んにし、そうして循環輪転を

脱して、富みかつ盛んな地位安住させる道なのだ。

果樹というものは、ことし沢山みのると、翌年はきっと実らないものだ。これを世間

で年切りという。これも循環輪転の理であって、当然そうなるべきものだ。

それを、人為によって年切りなしに毎年ならせるには、枝をすかしたり、つぼみの時に

つみとって花を減らしたりして、なんども肥やしをしてやれば、年切りなしで毎年同じ

ように実るものだ。 人の身代に盛衰貧富があるのは、ちょうどこの年切りのような

ものだ。 親は勤勉でも子は遊情だとか、親は節倹だが子は驕奢とかで二代三代と続か

ないのは、いわゆる年切りであり循環輪転なのだ。もしこの年切りがないように願う

ならば、果樹の手入れ法にならって、我が推譲の道を勤めるがよい。
 
参考文献

二宮翁夜話(上) 佐々井 典比古訳 一円融合会
 
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