漢文を音読しょうNO,49

                                                              

 
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 (一)慰安婦問題について                         2014.2.10  
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1965年の日韓基本条約締結の際に細かい条項を提起して一つ一つ洗い出し

金額を決めることを主張したが韓国側からすべて韓国政府から一括支払うので

すべて全額を政府が受け取ることで決定したことであります。
 
その当時の大統領が朴チョンヒー現今の朴クネ大統領の父親であります。

その時に支払った金額が当時の韓国予算の3倍近い賠償金を支払ったのです。

それを1990年代になって蒸し返して慰安婦賠償金を支払を要求してきたの

であります。

主権国家であれば30年前の締結した条約を破棄するような言動はしないので

あります。

恥も外聞もなく問題にしてくる行状は働くことは卑しいことであるという

両班(ヤンハン)文化の結果であります。

慰安婦とは1945年までの大東亜戦争時に日本軍基地の近くに韓国の女衒

売春業者が店を出し兵隊に売春をした女性たちです。
 
韓国の妓生(キーセン)と売春業は伝統的文化がありました。

現在でも韓国内では1945年以降米軍基地周辺には基地村女性群が活躍して

おります。

韓国はベトナム戦争ではベトナム女性を拉致して性奴隷にしてライタイハンと

いう3万5000人の子供を残したことで有名であります。

この賠償は一度も韓国はしておりません。
 
売春婦は軍人の5倍の給料をもらっていたこと。

女衒が勝手に求人して売春婦を雇って商売をしたこと。

その際の子供を残したことの記録がないこと。

日本の軍関係が関与していない証であります。

当時の朴 チョンヒ大統領がその売春婦に見舞金を払わなかったことは女衒が

商売で勝手に行っていたことを知ることで支払に応じなかったし対象には

なかった証であります。
 
1970年以降漢字教育を止めたのであれば65歳以下の人は1965年の条約項目

を読めないのであろう。

大統領以下、政治家は理解不能で問題を起こしているのであります。
 
韓国の場合 名詞、は漢字語句を発音しているのでそのハングル語は同音異語が沢山

あるでしょう。

その半壊な言語を長く話しているので頭脳がぬるくなり頭が働かなくなってきて微妙

な精神的、抽象的表現が出来なくなって精神発散が難解になりいろいろ騒がれて

いる火病という病状を起こしている国民が多く発狂している原因でありましょう。

両班という地位、文化を廃止して、働くことは卑しいという考え、文化を無くさない

限り国家を維持できないでしょう。
 
いつまでも困ったならば日本に難癖をつけて金銭をネダル、他国の責任にする性質、

技術を重んじる、芸事を重んじる文化にしなければ他者を喜ばす芸人、俳優歌手など

は数年で人気が無くなるような社会となっているのです。

  
 参考文献 日韓基本条約 ゴマブックス
 
 
(二)南洲手掌言志録を素読しよう。

    西郷隆盛ー 南洲手掌言志録

    言志四録ー佐藤一斎から101条選び、自らの戒めとする。
       
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1. 遊惰を認めて以て寛裕と為すこと勿れ。
 
  厳刻を認めて以て直諒と為すこと勿れ。
 
  私欲を認めて以て志願となすこと勿れ。
 
2.  毀誉得喪は、真に是れ人生の雲霧、
 
  人をして混迷せしむ。
 
  この雲霧を一掃せば、則ち天青く日白し。
 
3. 唐虞の治は只是情の一字なり。
 
  極めて之を言えば、
 
    萬物一體も情の推に外ならず。
 
4. 凡そ事を作すには、須らく天に事うるの心ある
 
  を要すべし。人に示すの念あるを要せず。
 
5. 憤の一事は是れ進學の機関なり。
 
  舜何人ぞや、予何人ぞやとは、方に是れ憤なり。
 
6. 眼を著くること高ければ、
 
  則ち理を見ること岐せず。
 
参考文献  西郷南洲遺訓 岩波書店
 
 
(三)播磨国風土記を音読しよう。
 
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賀古の郡 ・・・・・四方を望覧にして勅りたまひしく、
 
「この土は、丘と原と野と甚広大にして、この丘を見るに鹿児のごとし」
 
とのりたまひき。
 
故れ、名づけて賀古の郡と曰う。
 
日岡。み狩せし時に、一鹿この丘に走り登りて鳴く。声比々といひき。
 
故れ、日岡と号く。
 
この岡に比礼墓あり。
 
褶墓と号くる所以は、昔、大帯日子の命、
 
印南の別嬢を誂えたまひし時
 
御佩刀の八咫の釼の上結に八咫の 勾玉,
 
下結に麻布都 の鏡 を繋け、
 
賀毛の郡の直等が始祖、息長の命を媒と為て
 
誂ひ下り行でましし時に、摂津の国の高瀬の
 
済に到りまして、「この河を度らまく欲りす」と請はしたまひき。
 
度子、紀伊の国の小玉、申しけらく、
 
我は天皇の贄人たらめや とまをしき。
 
その時、勅りたまひしく、「朕公、然れども猶ほ度せ」 とのりたまひき。
 
度子、対へてまをさく、「遂に度らむと欲さば、度の賃を賜へ」とまをしき。
 
ここに、すなはち道行の儲けと為したまへる
 
弟縵を取らして、舟の中に投げ入れたまへば
 
すなはち縵の光明、炳然舟に満ちたり。
 
度子、賃を得たれば、すなはち度しまつりき。
 
故れ、朕君の済という。
 
遂に赤石の郡 厮の御井に到り、御食を供進りたまひき。
 
故れ、厮の御井と曰う。その時、印南の別嬢、
 
聞きて驚き畏み、すなはち南毘都麻の嶋に
 
遁げ度りき。
 
ここに天皇、すなはち賀古の松原に到りて
 
覓ぎ訪れたまひき。
 
ここに、白き犬、海に向かひて長く吠えき。
 
天皇、問ひたまひしく、「是は誰が犬ぞや」 とのたまふ。
 
須受武良の首、対へ曰しけらく、「是は別嬢が養える犬なり」とまをす。
 
天皇、勅りたまひしく、「好く告げつるかも」とのたまふ。
 
故れ、告げの首と号けたまひき。
 
参考文献 日本書記、風土記 小学館
 
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