漢文を音読しょうNO,62

                                                              

 
 目次ページ  前ページ  次ページ
                                                 2014.6.20
(一)明治維新から30年間でどうして世界列強の国家に成り得たのか。  
    読み上げ音声<<クリック
日本は西洋国家からは明治維新で一気に世界の列強国に如何に生り得る

ことができたのかを不思議に思われています。

江戸時代のちょん髷の時代から西洋の考え、西洋文化を取り入れて大国

にのし上がって行ったことが世界から見た場合驚異の眼差しを向けられる。

その理由を日本人自身も余り自覚、理由を明確になっていないのであります。
 
西洋の教えを受け入れるためには其の為の器が無ければ学ぶことは出来ない

はずであります。30年間で西洋大国を凌ぐ国家にした理由は江戸時代の

教育の土壌があった筈であります。
 
江戸時代の後半に伊能忠敬が日本地図を完成させました、その地図が今の

時代にあっても正確無比と思われる地図であったことがイギリス、オランダ、

アメリカ、ロシャ等、其の時代の列強の植民地にならずに明治維新を無血革命

で成し遂げたのであります。

その伊能忠敬はどうしてそのような人物が現れたのかであります。

その基は日本全国に網羅されていた寺子屋制度でありましょう。

特に塵劫記という数学書が端を発しています、1627年発行です、関が原

合戦が1600年ですから江戸初期に出版されています。

その時代から寺子屋で素読や数学が教えられていたのですから驚きであります。

塵劫記の著者、吉田光由は土木工事の技術者であり、九九計算を含めた実用数学

書が寺子屋の教科書となったのです。

その後、関孝和が現れて数学の隆盛を窮めていきます、ベルヌーイ数を西洋よりも

1年余り早く出版されています、従いもし日本が鎖国時代でなかったならベルヌーイ

数でなく関孝和の定理になっていた筈であります。
 
江戸時代末期には遊歴和算家という職が出現しています、高等数学を日本全国で教え

行脚して生活する学者が現れています、芭蕉が俳句を教えながら奥の細道を行脚した

ように数学を教えながら日本を遊歴する人たちです。

どんな僻地であっても数学道場があってその道場を訪ねまわる先生という職業が有っ

たほど数学愛好家が非常に多かったのであります。

日本では和算家と呼ばれて教科書である塵劫記などは江戸時代の東海道膝栗毛の滑稽

本(弥次喜多道中記)にも登場して話題になっています。

江戸時代の末期には武士、農民、工民、商人、区別無く素読、和算が庶民に広まって

いたのであります、相模地方(神奈川県)だけでも2000箇所ほど寺子屋があった

程でありますから教育が盛んで有ったかが窺い知れるところであります。

アメリカのペリー一行が江戸に来た時に城の立て看板を読む数人の子供たちを見て

この幼い子供たちであっても字が読める識字率に驚いたことが記録されています。
 
従って明治維新後に長州、薩摩人が中心となって新政府を立ち上げて今までの日本

文化を隠して西洋文化を取り入れていったのであります。

その際に今まで努力精進した和算頭脳が発揮されて政治、建築、海運、船舶、銀行業

、あらゆる業種に其の能力が発揮されて群雄割拠の世界に立ち向かう国家群が建設

されて30年で西洋列強に並ぶ日本国家建設を成し遂げたのであります。

武士だけでなく、町民、農民たちにも広まっていた和算能力と素読能力が技術大国

の礎を形成されていったのであります。
 
参考資料

江戸の天才数学者 鳴海 風 新潮選書

塵劫記  吉田光由 岩波文庫
 
 
(二)忍ぶ面影を音読しよう。

この書は趣味通俗読み物として我が国における英雄偉人の本領を摘録

したものにて家庭教育並びに武士道修養の一端たるべきを目的とせり。

大正八年六月一日 編者石井典江 
 
 音読音声<<クリック
 
藤吉郎の幼時ー平気の猿公      大倉桃郎

尾張国清洲の城に大普請が始まって色々の職人が夥しく入込む、鉋、

鋸、金槌の音、手斧の音、掛け声、唱声、材木、竹材、を運ぶ響き

朝から暮れまで毎日賑わう。

奉行の小屋には工事監督の役人等が詰めかけて、中にも忙しいのは

帳簿係の役人で大工左官人夫に至るまでの出勤調べ、工事材料の出入

費用調べ、普請日記、雑多な事務に首をひねって机を前にセッセと

筆を走らせている。

と、其の前に立った少年がある、今年十五歳で名は日吉丸だが、誰も

名を言わずに「猿よ猿よ」と呼ぶ口の悪い職人などは「猿公」と云う

「猿公」は大工等の弁当運びに雇われているが、決して時間を間違え

たことが無い、お茶の加減もなかなか上手、気が利いて抜け目が無い

から職人等にも可愛がられる、それに「猿公」と云う綽名可笑しいから

役人等もよく知っている。

其の「猿公」が机の前に立ったので、帳簿係の役人が「猿よ、何しに来た」

と云った。「私はね、旦那の字を見に来たんだ、旦那はすらすらとお書き

になるが、なかなかお上手ですな、私は感服しましたよ」と猿公が云った。

「感服だと、生意気云ってる、お前でも字が分かるのか」

「そりゃ分かりますとも、ちゃんと目が二つ有りますからね、ですが、旦那

は何時でも字ばかり書いてるが字を書くだけでも知行は貰えるものですかね」

「そりゃ勿論だ」と役人は笑って「お前は知るまいが大名の家には祐筆と

云ってな、字の上手な者に知行を下さる」

「へえ結構ですな、それで旦那位お書きになるには大体じゃないでしょうが、

一体どれ位おもらいになまりすかい」

「俺か、俺はな、人よりも上手だと云うので五百石頂戴してる、どうだ五百石

だぞ、大したものだろう」と役人は驚いたかと云わぬばかりに鼻高々と笑った。

「大したもんですね、五百石と云えば五千石の十分の一、五万石の百分の一、

五十万石の千分の一」

「何だと」

「否え、何でも無いのです、それは然うと今度の御城普請で大工等にどれたけ

お米がかかりますかな」

「そんな事を聞いて何にする」

「私も其の内城普請をするから参考の為に聞いとこう思いまして」

「此奴、駄法螺を吹くにも程がある、弁当運びの癖に、とてつも無い事を云う奴だ

は、は、は、併し少年の癖にそんな事に気が付くのが感心だ、話してやろう先ず今度

の御普請には大工が一日二百人入っているから一日には米二石だけ費わねばならん」

「然うすると一年には七百三十石の勘定ですね」

「左様左様」
 
[次回につづく]
 
参考文献

   史実文筆 忍ぶ面影 三星社書店  大正八年六月一日発行
 
 
 
(三)中江藤樹翁問答を音読しよう。

中江藤樹

人を愛し敬う心を大切にし、母に孝養をつくして 「近江聖人」 とその徳望が慕われた

江戸時代の儒学者・中江藤樹(なかえ とうじゅ)。

日本陽明学派の祖。初め朱子学を修め後、陽明学を首唱して近江聖人とよばれた。

熊沢蕃山・淵岡山(ふちこうざん)はその高弟。著に「鑑草」「翁問答」など。.
 
翁問答巻一(前回の続き)
 
 素読音声<<クリック

この霊宝を懸命になって学ぶのを儒者の学問と言い、生来その身に具してゐるのを

聖人と呼び、学問の結果に依り、よく一身に保って守り行うのを賢人と称する。

孔子は万世にに亙って人道が暗となる事を憂い、この霊宝を求め学び得た人は稀で

現在の明国となって、やっとこの宝が世に光を放ち出した感がある。

大舜はこの宝を常に抱きつつ庶人中から天子の位に推された。文王はこれを守って

天帝の左右に座を占められた。

又、董永はこれを保合して天の織女を妻とし、呉二はこの為に非常に苦しんだ天刑を

避けることが出来た。斯く古来に亙ってこれに関する幾多の奇跡談があり、一々語

ってゐられない程数多い霊験が行われている。

我々は注意に注意を重ねて、この宝を得るように努力しなければならないと思う。
     
参考文献
   中江籐樹集 大日本思想全集刊行会
 
inserted by FC2 system